時代劇で有名な「水戸黄門」は、多くの人にとって馴染み深い存在です。しかし、江戸時代には「黄門」と呼ばれた人物が水戸藩の徳川光圀だけだったのか、紀州黄門や尾張黄門と呼ばれる人物も存在したのか気になる人もいるでしょう。
実は「黄門」は特定の人物だけを指す名前ではなく、江戸時代の大名や公家などが持った官職に由来する呼び名でした。そのため、水戸以外にも黄門と呼ばれる人物は存在しました。
この記事では、黄門という名称の意味や、水戸黄門・紀州黄門・尾張黄門と呼ばれた人物について分かりやすく解説します。
「黄門」とは人の名前ではなく官職の呼び名
「黄門」という言葉は、中国の官職名である「黄門侍郎」に由来しています。日本では、朝廷の官職である「中納言」を指す別名として使われるようになりました。
つまり、水戸黄門の「黄門」は徳川光圀だけの特別な称号ではなく、中納言の官位を持った人物に対して使われる呼び方でした。
例えば、江戸時代の大名が中納言に任命されると、「〇〇黄門」と呼ばれることがありました。そのため、水戸藩以外にも黄門と呼ばれた人物が存在します。
水戸黄門として知られる徳川光圀
最も有名な黄門は、水戸藩第2代藩主の徳川光圀です。徳川光圀は江戸時代前期の人物で、歴史書「大日本史」の編纂を始めたことでも知られています。
光圀は1661年に参議、後に中納言に任じられたため、「水戸黄門」と呼ばれるようになりました。
ただし、現在広く知られている「全国を旅して悪人を懲らしめる水戸黄門」の姿は、後世の創作による部分が大きく、実際の徳川光圀がそのような旅をした記録はありません。
紀州黄門と呼ばれた人物とは
紀州黄門とは、紀州徳川家の人物の中で中納言になった者を指す呼び方です。特に有名なのは、紀州藩第2代藩主の徳川光貞です。
徳川光貞は徳川御三家の一つである紀州徳川家の当主であり、官位として中納言に任じられたため、「紀州黄門」と呼ばれることがあります。
紀州徳川家は後に徳川吉宗を将軍として輩出した家柄であり、江戸幕府の中でも非常に重要な位置を占めていました。
尾張黄門と呼ばれた人物とは
尾張黄門も、尾張徳川家の人物で中納言になった者に対する呼称です。尾張徳川家は徳川御三家の筆頭とされ、江戸時代を通じて高い格式を持っていました。
代表的な人物として、尾張藩第2代藩主の徳川光友が挙げられます。徳川光友は尾張徳川家の当主であり、中納言に任じられたことから尾張黄門と呼ばれることがあります。
このように、「黄門」という呼び方は水戸藩だけに限られたものではなく、官位を基準に使われていた名称でした。
なぜ水戸黄門だけが特別に有名になったのか
黄門と呼ばれた人物は複数いましたが、現在では水戸黄門だけが圧倒的に有名です。その理由は、江戸時代後期以降に広まった徳川光圀の人物像にあります。
徳川光圀は、学問を重視した人物であり、庶民からも親しみやすい存在として語られるようになりました。その後、講談や小説、テレビドラマによって「庶民の味方として全国を旅する名君」というイメージが定着しました。
一方で、紀州黄門や尾張黄門と呼ばれた人物たちは、政治的には重要な存在でしたが、物語化される機会が少なかったため一般的な知名度は低くなっています。
まとめ
「黄門」は水戸徳川家だけの特別な称号ではなく、中納言という官職を持つ人物に使われた呼び名でした。
そのため、紀州徳川家の人物は紀州黄門、尾張徳川家の人物は尾張黄門と呼ばれることがあり、実際に複数の黄門が存在しました。
ただし、後世の創作や時代劇によって徳川光圀の知名度が飛び抜けて高くなったため、現在では「黄門」と聞くと水戸黄門を思い浮かべる人が多くなっています。


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