三国時代の「ミカン」考察〜蜀・呉・魏の貢ぎ物に登場する柑橘は何か?〜

中国史

古典『三国志演義』や正史中に、「橘」「柑」「柑橘」が貢ぎ物などに登場し、「ミカンのような果実だ」という印象を私たち現代人に与えています。しかし、果たしてそれは現在日本で親しまれる「温州ミカン(Citrus unshiu)」そのものなのでしょうか?本稿では、三国時代〜その後の中国南方における柑橘文化を、植物史・史料・貢物の実例を通じて検証します。

南方地域における柑橘の栽培と史料

まず、南方(現在の華南・北ベトナム域)で柑橘類がどのように栽培・扱われていたかを見てみましょう。古典植物誌である『南方草木状』(西晋頃成・著者 嵇含)には、「橘(jū = Citrus × sinensis もしくは橘系)」「柑(gān = Citrus reticulata 等)」の記述があります。例えば、「橘は白い花を咲かせ、赤みのある果実をつけ、皮に芳香があり味も甘い。江南で産し、ほかにない」とあります。:contentReference[oaicite:4]{index=4}

同書では、諸葛 亮らの活動時代に近い西晋期までに、交趾(現在の北ベトナム)や交州・広南などの地域で「柑橘」が貢ぎ物となっていたという記述があり、南方での柑橘の実用化・貢納・栽培がかなり早期から行われていたことが分かります。:contentReference[oaicite:5]{index=5}

三国時代の貢ぎ物・柑橘の実例

では、具体的に三国時代の中で柑橘がどのように「貢ぎ物」「贈答」「語り物」の中で扱われていたかを見てみましょう。

『南方草木状』には、「黄武年間(呉の時代)に士燮が交趾から一茎に17 果をつけた橘を送った」という記述があります。:contentReference[oaicite:6]{index=6} また、「柑(特に壺柑と言われる種類=後の椪柑 Citrus poonensis)には南方で『蟻袋を木に吊るして害虫を防ぐ』という話」が紹介されています。:contentReference[oaicite:7]{index=7}

このように、「柑橘が貢物として珍重された」「南方由来である」という共通点があります。よって、三国時代(おおよそ220〜280 年)において、呉や魏など南方地域との交易あるいは支配を通じて「橘・柑」が認識されていたことは、史料的にも裏付けられていると言えます。

「温州ミカン(Citrus unshiu)」との関係・差異

では、現代日本で馴染み深い「温州ミカン(学名 Citrus unshiu)」と、三国時代に出てくる「橘・柑」は一致するのでしょうか。

結論から言えば、完全には一致しません。温州ミカンという名称自体は比較的近代になってから付されたもので、日本に導入されたのも明治以降という説もあります。:contentReference[oaicite:8]{index=8} また、三国時代に言う「橘・柑」は「江南・交趾などで栽培され、皮に芳香があって味も甘い」という記述があるものの、現代の品種分類で「Citrus unshiu」と明確に同定できる記録・遺伝子解析までは至っていません。例えば、『南方草木状』の記述では「壺柑(hú gān)=現在言う椪柑 Citrus poonensis の一種」とされています。:contentReference[oaicite:9]{index=9}

また、気候・栽培地域・品種改良の観点からも、温州ミカンが現在日本で栽培されてきた過程には日本独自の育種・選抜が絡んでおり、三国時代の貢物柑橘とは“同属・近縁”ではあっても“同一品種”と断言するには根拠が不足しています。

実例比較:貢物柑橘 vs 現代ミカン

実例として、三国時代に「一茎に17 果をつけた橘」の話があります(交趾からの貢物)。このような「果実数が多い」「南方産」「宮廷・貢物用」の記録がある点が、現代のミカン栽培とは性格が異なります(現在の商業栽培品種は選抜・改良を経ており、数・形・味・皮の厚さなどが目的に応じて変化しています)。

さらに、現代日本の温州ミカンは「皮が比較的薄く、容易に剥ける」「無核・少籽」「果汁の多さ」が特徴ですが、三国期の記録にはそのような特徴(たとえば「無籽」「薄皮」は明記されていません)。そのため、「ミカンのような果実」であっても、品種・栽培域・流通形態の違いから、完全に「温州ミカンそのもの」ととらえるのは慎重であるべきです。

なぜ“ミカン”という語感が出てくるのか?

では、なぜ日本語・物語・史料の中で「ミカンに似た果実」が出てくるのでしょうか。その要因として、以下が考えられます。

  • 南方産・柑橘が珍重された:江南・交趾・広南など温暖地帯でしか栽培できなかったため、北方中原地域には“南方の珍果”として贈答・貢物に使われた。『南方草木状』もその旨を序文で指摘しています。:contentReference[oaicite:10]{index=10}
  • 柑橘類の皮と芳香・薬用性:
  • 翻訳・物語化された際の“ミカン”語訳:

まとめ

以上を整理すると、三国時代における「橘」「柑」という記述の果実は、現在の温州ミカン(Citrus unshiu)そのものではないものの、柑橘類(特に江南〜南方産)であること、そして贈答・貢物・宮廷用途として珍重された果実であったことは間違いありません。

従って、質問にあったように「三国志読んでると…ミカン出てくるけど、温州ミカンですか?」という問いに対しては、「厳密に言えば“温州ミカン”とは言えないが、温州ミカンに近縁・近しい南方柑橘である可能性が高い」というのが現在の研究上の判断です。

研究・読み物としてこのテーマに触れる際には、「品種の特定」ではなく「果実の種類・栽培背景・贈答文化」の観点で読むと、より理解が深まるでしょう。

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