神聖ローマ帝国やハプスブルク家の歴史を学ぶ際に、多くの人が疑問に思うのが「なぜネーデルランドがオーストリアではなくスペインに渡ったのか」という点です。ここでは、その歴史的背景と外交上の意味を整理し、当時のヨーロッパ情勢とあわせて解説します。
カール5世とハプスブルク家の広大な領土
16世紀、カール5世(神聖ローマ皇帝、スペイン王カルロス1世)はヨーロッパ史上有数の広大な領土を支配していました。スペイン、イタリアの一部、アメリカ大陸の植民地、そしてネーデルランドに加え、オーストリアやドイツ諸邦をも掌握していました。この広さは「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれる所以です。
しかし、あまりに広大な領土は統治の難しさを生み出し、最終的にカール5世は領土を二分する決断を下しました。
ハプスブルク家の分割と相続の流れ
1556年、カール5世は退位し、領土を二つに分けました。スペインとネーデルランド、ナポリ・ミラノなどのイタリア領、そして新大陸の植民地は息子フェリペ2世に継承されます。一方で、神聖ローマ帝国の皇帝位やオーストリアの領地は弟フェルディナント1世の系統に引き継がれました。
この分割により、ハプスブルク家は「スペイン・ハプスブルク」と「オーストリア・ハプスブルク」に分かれ、以後ヨーロッパ政治の二大勢力として影響を及ぼしていきます。
なぜネーデルランドはスペインへ?
ネーデルランドがスペイン側に渡った背景には、地理的・経済的な要因があります。ネーデルランドは当時、ヨーロッパ経済の中心の一つであり、商業と金融で栄えていました。その富をスペイン王国の資金源とすることは、カール5世にとって当然の選択でした。
さらに、ネーデルランドはスペイン本国と海路で比較的結びつきやすく、またフランスに対する軍事的な前線として利用できるという利点がありました。オーストリア領に含めるよりも、スペイン王国の経済的・軍事的基盤を強化する役割を期待されたのです。
外交革命とネーデルランドの役割
18世紀に入ると、ハプスブルク家とブルボン家(フランス王家)の間で外交関係が大きく変化しました。かつては敵対していた両家が同盟を結ぶ「外交革命」により、オーストリアのドイツにおける影響力は揺らぐことになります。
もしネーデルランドがオーストリア側に属していたならば、ドイツにおけるオーストリアの地位はさらに強固なものになった可能性があります。しかし実際にはスペイン側に属したことで、オーストリアは中欧を中心に、スペインは西欧と新大陸を中心に影響力を発揮する道を歩むことになりました。
歴史の分岐点としてのネーデルランド
ネーデルランドの帰属は、ハプスブルク家の運命を大きく左右しました。その後の八十年戦争(オランダ独立戦争)や三十年戦争を通じて、ネーデルランドはヨーロッパ政治の最前線に位置することになります。もしオーストリア領となっていた場合、ヨーロッパの勢力図は大きく変わっていたかもしれません。
まとめ
ネーデルランドがスペインに渡ったのは、カール5世による領土分割の結果であり、経済的価値と軍事的前線としての役割が背景にありました。この決断は、スペイン・ハプスブルクとオーストリア・ハプスブルクの二つの流れを生み出し、ヨーロッパ史を大きく動かす要因となりました。歴史を振り返ると、その選択がヨーロッパのバランスを形作る重要な分岐点であったことが分かります。
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