明治政府が1873年に征韓論を退けながら、1875年に江華島事件を引き起こし、朝鮮を武力で開国させた背景には、1874年の台湾出兵の成功が大きな影響を与えたと考えられます。この記事では、明治政府の外交政策の変化と、それが江華島事件にどのように繋がったのかを解説します。
征韓論とその退けられた理由
1873年、明治政府は朝鮮に対する強硬策を取るべきだという征韓論が政府内で議論されましたが、この政策は最終的に退けられました。征韓論を支持していた大久保利通をはじめとする一部の政治家は、朝鮮に対して武力を行使し、開国させるべきだと主張しました。しかし、最終的には朝鮮に対する侵略的な政策は採用されず、代わりに外交交渉を通じて関係を構築する方針が選ばれました。
その理由として、当時の政府内部での意見の対立や、国内外の情勢の影響が挙げられます。特に、国内での政治的安定が優先されたため、外交的に朝鮮との関係を改善する方法が選ばれました。
台湾出兵の成功と自信の高まり
1874年の台湾出兵は、日本が初めて海外に対して軍事的な行動を起こした重要な出来事です。この出兵は、琉球藩からの外交問題が発端であり、明治政府が台湾を侵略する形で解決しました。結果的に、日本は台湾に対して勝利を収め、外国との戦争を有利に運ぶ実力を示しました。
この成功によって、日本の政府は自信を深め、今後の外交や軍事行動において積極的な姿勢を取るようになりました。台湾出兵による実績が、明治政府の国際的な立場を強化し、朝鮮に対しても武力行使を辞さない姿勢を見せる土壌を作ったと考えられます。
江華島事件の勃発とその背景
1875年、江華島事件が発生しました。この事件は、朝鮮を開国させるための日本の武力行使の一環であり、朝鮮に対する圧力を強化するために起こされたものです。日本は江華島周辺に軍艦を派遣し、朝鮮側との衝突を引き起こしました。
江華島事件の背景には、台湾出兵で得た自信と、朝鮮に対する圧力を強めるという明治政府の方針がありました。これにより、朝鮮は日本の要求に屈し、不平等条約である日朝修好条規を結ばされ、開国を余儀なくされました。
明治政府の外交政策転換の要因
1873年の征韓論退けから1875年の江華島事件までの外交政策の転換は、国内外の状況によるものと考えられます。台湾出兵の成功により、日本は自信を深め、国際的な舞台で積極的な外交行動を取るようになりました。また、アジアにおける西洋列強との力のバランスを取るためには、朝鮮を開国させることが重要だと判断されたのでしょう。
このような政策転換は、明治政府の近代化と国際的な立場を確立するために必要なものであり、その後の日本の対外政策にも大きな影響を与えました。
まとめ
明治政府が1873年に征韓論を退け、1875年に江華島事件を起こした背景には、1874年の台湾出兵の成功が大きな役割を果たしました。台湾出兵によって得た自信と、国際的な立場を強化するために、朝鮮に対する武力行使が行われたのです。この政策転換は、明治政府の近代化と外交戦略において重要な転機となり、後の日本の対外政策に大きな影響を与えました。
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