「漢民族」という概念は中華民国以前には存在しなかったという話をよく耳にします。しかし、歴史的に「漢人」という言葉自体は使用されており、近代における民族概念の誕生には背景があります。本記事では、この概念がどのように成立し、どのような政治的・歴史的意味を持つようになったのかを解説します。
「漢民族」という言葉の起源と歴史的背景
中国の古代から近世にかけて、「漢民族」という現代的な民族意識は存在していませんでした。代わりに、「華夷秩序」や「士農工商」「夷夏之辨」など、文明的・文化的な区分が行われていました。つまり、漢人は文化的に中華文明を担う「支配層」や「庶民」として扱われ、民族的な一体感を持つというよりも、文明的・社会的な階層として存在していました。
「漢人」という表現が使われたのは、主に清朝時代における分類で、満洲やモンゴル、回族などと並べられた存在です。しかし、この言葉自体は政治的・身分的なラベリングに過ぎませんでした。
モンゴル・満州・チベットの「民族」意識
モンゴル、満州、チベットなどは歴史的に王朝を築き、独自の支配構造や文化を持っていたため、比較的早い段階から「民族」として認識されていました。これらの集団は自らの言語、宗教、文化を中心に独立したアイデンティティを持ち、清朝のような多民族帝国の中で特権や自治権を得ることができたため、民族意識が自然に芽生えたと言えます。
モンゴル人、満洲人、チベット人はそれぞれ、国家形成や文化の発展において重要な役割を果たしており、これが「民族」としての認識を深めた要因となったのです。
「漢民族」の概念の再構成:中華民国期の民族政策
「漢民族」という概念が本格的に再構成されたのは、中華民国時代に入ってからです。特に孫文が掲げた「五族共和」は、清朝=満洲民族の支配からの脱却を目指すとともに、漢語を話し、儒教を中心とした中華文明を共有する庶民層を「漢民族」としてまとめ上げました。これにより、異なる言語や文化を持つ多様な集団をひとつの民族にまとめる試みが行われました。
この「漢民族」の再構成は、単なる政治的・社会的な集団を越えて、民族的なアイデンティティを持つ一つの国民集団としての意味を持つようになりました。
「漢人」と「百姓」:社会階層としての意味
「漢人」とは、実際には「百姓」や「町人」などの庶民階層を指すことが多かったという点で、現代的な民族意識とは異なります。江戸時代の日本における「百姓」や「町人」も同様に、特定の民族集団を指すものではなく、社会階層を示す用語であったように、清朝時代の「漢人」も社会的な身分や政治的立場によるラベリングでした。
そのため、当時の「漢人」という言葉を民族的なアイデンティティとして捉えることは難しく、その後に中華民国によって与えられた民族名であることを理解することが重要です。
まとめ
「漢民族」という概念は、政治的な必要性から中華民国期に再構成されたものです。それ以前は、漢人という言葉が指すのは特定の社会階層であり、現代的な意味での民族とは異なっていました。清朝などの多民族帝国においては、モンゴル人や満洲人、チベット人といった他の民族と異なり、漢人はあくまで文化的な分類であったことを理解することが大切です。
その後、民族平等を掲げた中華民国期の「五族共和」によって、漢民族という概念が初めて民族アイデンティティとして確立されたのです。
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