オーストリア継承戦争と七年戦争の間で、イギリスの外交政策がどのように変化したのかを理解することは、18世紀のヨーロッパの国際関係を理解する上で非常に重要です。イギリスがなぜオーストリア側からプロイセン側に立場を変えたのか、その背景にはどのような理由があったのでしょうか?この記事では、その変遷を詳しく解説します。
1. オーストリア継承戦争の背景とイギリスの立場
オーストリア継承戦争(1740年〜1748年)は、ハプスブルク家のマリア・テレジアがオーストリア領を相続した際に起こった戦争です。この戦争では、フランス、スペイン、プロイセンがオーストリア領の分割を試みる中、イギリスはオーストリアを支持し、フランスに対抗しました。イギリスの支援は、オーストリアが持つ商業的利益や海上貿易における重要な位置に基づいていました。
イギリスは、フランスがオーストリアを支配すると、その影響力が地中海や大西洋を越えて広がり、イギリスの商業活動にとって不利だと判断しました。そのため、イギリスはオーストリアと同盟を結び、フランスとの戦争に臨むことを決定しました。
2. 七年戦争の発生とイギリスの外交政策の変化
七年戦争(1756年〜1763年)は、オーストリア継承戦争から約10年後に勃発しました。七年戦争では、再びフランスとオーストリアが対立し、イギリスはフランスと戦いましたが、今回の戦争ではイギリスがプロイセンと同盟を結びました。この変化の背景には、国際情勢の変動とともに、イギリスの経済的・戦略的利益が大きく影響していました。
イギリスがプロイセン側に立った理由の一つは、プロイセンのフリードリヒ大王の軍事力とイギリスにとっての戦略的な価値です。フリードリヒ大王のプロイセンは、フランスの拡張に対抗するために非常に重要な役割を果たしました。また、イギリスはフランスとの戦争において、フランスの領土や植民地を奪うことを目指していたため、プロイセンとの同盟はその目標を達成するための重要な手段と考えられました。
3. イギリスの外交政策における戦略的判断
イギリスの外交政策の変更は、単にプロイセンとの同盟に切り替えたという事実だけでは説明できません。イギリスは、フランスと戦う上での最適な戦略として、プロイセンを強力な同盟者として選んだのです。プロイセンはヨーロッパ大陸におけるフランスの脅威に対抗するための重要な軍事的要素でした。
また、イギリスは、フランスとの植民地戦争で優位に立つためには、フランス本国を戦争で圧倒し、さらに大陸戦争でフランスを牽制する必要があったのです。そのため、プロイセンとの協力が不可欠となり、結果としてイギリスはプロイセン側に立つことを選択しました。
4. イギリスとオーストリアの関係の変化
オーストリア継承戦争と七年戦争におけるイギリスの立場の変化は、オーストリアとの外交関係にも影響を与えました。オーストリアとイギリスの同盟は、フランスに対抗するために非常に強力なものとなっていましたが、七年戦争では、イギリスはオーストリアよりもプロイセンとの関係を重視しました。
オーストリアはフランスと同盟を結び、イギリスにとってはフランスの拡張が最大の脅威となったため、イギリスはプロイセンとの戦略的協力を選びました。この変化は、国際的な力関係や戦略的利益に基づいた冷徹な判断によるものであり、戦争の流れを大きく変える結果となりました。
まとめ
オーストリア継承戦争と七年戦争におけるイギリスの立場の変化は、当時の国際情勢や戦略的利益に深く根ざしたものです。オーストリア継承戦争ではオーストリアを支持したイギリスが、七年戦争ではプロイセンとの同盟を選んだ理由は、フランスに対抗するための最適な戦略と判断されたからです。この外交政策の変更は、戦争の結果に大きな影響を与えることとなりました。
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