明治六年の政変は、明治政府内部で起きた大きな政治対立であり、その後の日本の政治の方向性を決めた重要な出来事です。簡単に言えば、朝鮮への対応をめぐって西郷隆盛らの征韓論派と、岩倉具視・大久保利通らの内治優先派が対立し、西郷らが政府を去ることになった事件です。
ただし、実際には「岩倉使節団が不在の間に征韓論が勝手に決定され、帰国後に覆された」という単純な流れではありません。征韓論をめぐる議論には複数の政治的背景があり、明治政府内の権力争いや国家建設の方針の違いも関係していました。
この記事では、明治六年の政変が起こった原因、征韓論の内容、岩倉使節団帰国後の対立、そして日本の歴史に与えた影響について詳しく解説します。
明治六年の政変が起きるまでの時代背景
明治維新によって江戸幕府が終わり、新政府が成立すると、日本は近代国家づくりを急速に進める必要がありました。しかし、政府内部では「国内改革を優先するべきか」「外国への積極的な対応を進めるべきか」という意見の違いが生まれていました。
明治政府には、旧薩摩藩や長州藩出身者を中心とした政治家が多く集まりましたが、彼らの間でも国家運営について考え方が一致していたわけではありません。
特に明治初期は、徴兵制度、地租改正、廃藩置県など大きな改革が続き、国内には不満も存在していました。そのため、政府内では日本の基盤を整えることを優先するべきだという考えも強まっていました。
征韓論とは何を目指した考えだったのか
征韓論とは、朝鮮に対して使節を送り、日本との国交を求め、場合によっては武力行使も視野に入れるべきだという考え方です。
中心人物として知られるのが西郷隆盛です。ただし、西郷の考えは単純に朝鮮を攻撃するというものではなく、まず自らが使節として朝鮮へ赴き、交渉を行うというものでした。
一方で、板垣退助や江藤新平なども征韓論に近い立場を取りました。彼らには、士族の不満を海外進出によって解消したいという考えや、日本の国際的な地位を高めたいという思惑もありました。
岩倉使節団の帰国によって政府内の対立が激化
明治政府の主要人物である岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らは、1871年から1873年にかけて岩倉使節団として欧米諸国を視察していました。
使節団は欧米の政治制度、軍事力、産業発展などを目の当たりにし、日本がまだ近代国家として十分な力を持っていないことを認識しました。
そのため帰国後、大久保利通らは「まず国内の近代化を進め、国力を高めることが先決である」と主張しました。これが征韓論派との大きな対立につながります。
明治六年の政変の実際の流れ
1873年(明治6年)、政府内では朝鮮への使節派遣をめぐって議論が行われました。西郷隆盛は朝鮮への派遣を主張し、自らが交渉役になることを希望しました。
一時は西郷の派遣が決定されたとされていますが、岩倉使節団の帰国後、大久保利通や岩倉具視らが反対しました。そして政府内で再び議論が行われ、最終的に朝鮮への派遣は延期されることになります。
この決定に反発した西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らは政府を辞職しました。この一連の政治的対立が「明治六年の政変」と呼ばれています。
明治六年の政変は単なる征韓論の失敗ではない
明治六年の政変は、単純に「西郷が戦争をしたがり、大久保が止めた」という出来事ではありません。当時の日本がどのような国家を目指すのかという大きな方針の対立でした。
西郷らは外交や士族の役割を重視し、海外への対応を積極的に行うべきだと考えました。一方、大久保らは富国強兵や産業育成など、国内の体制整備を優先しました。
例えるなら、まだ十分な設備が整っていない国が海外で活動するのか、それともまず国内の力を蓄えるのかという戦略の違いだったと言えます。
明治六年の政変が日本に与えた影響
政変によって西郷隆盛は鹿児島へ戻り、その後1877年の西南戦争につながっていきます。また、板垣退助らは後に自由民権運動を進めることになります。
一方、政府に残った大久保利通らは、殖産興業や軍制整備など近代国家化をさらに進めました。
つまり明治六年の政変は、一時的な人事争いではなく、その後の日本の政治体制や外交方針を大きく変える分岐点となりました。
まとめ
明治六年の政変とは、征韓論をめぐって西郷隆盛らと岩倉具視・大久保利通らが対立し、西郷らが政府を辞職した事件です。
「岩倉使節団が帰国して征韓論を否定した」という理解は大筋では正しいですが、実際には日本の近代化を優先するか、外交や海外進出を重視するかという国家方針の対立が背景にありました。
この事件を理解することで、明治政府がどのように近代国家への道を選び、その後の日本政治がどのように形成されていったのかをより深く知ることができます。


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