日本の古代律令制では、律令に定められた官職とは別に新たな役職が設置されることがありました。それが「令外官(りょうげのかん)」です。特に嵯峨天皇の時代には、政治制度の整備に伴って重要な令外官が登場しました。
この記事では、嵯峨天皇期に成立した令外官の性格や、後に編纂された弘仁格式との関係、令外官がどのように制度化されていったのかについて詳しく解説します。
令外官とは律令に定められていない官職のこと
令外官とは、その名の通り「令(りょう)の外に置かれた官」という意味です。律令制度では、官職や役割は基本的に律令によって定められていましたが、政治や行政上の必要から、新しい役職を追加することがありました。
つまり令外官は、律令制度を否定するものではなく、既存の制度では対応できない問題を解決するために設置された補助的な官職でした。
代表的な令外官としては、嵯峨天皇の時代に設置された蔵人所(くろうどどころ)や、後の時代に発展する検非違使(けびいし)などがあります。
嵯峨天皇時代に設置された代表的な令外官
嵯峨天皇(在位809年~823年)の時代は、律令制の再整備が進められた時期でした。この時代に設置された重要な令外官が蔵人所です。
蔵人所は810年の薬子の変をきっかけとして設置され、天皇の側近として機密文書の管理や命令の伝達などを担当しました。従来の官僚組織では処理しにくかった天皇直属の事務を担当する役割を持っていました。
このように令外官は、単なる臨時的な役職ではなく、実際の政治運営の中で大きな役割を果たす存在へと発展していきました。
弘仁格式とはどのような法典なのか
弘仁格式(こうにんきゃくしき)は、嵯峨天皇の時代に編纂が始められた格式です。「格式」とは、律令を補足・修正するための法令集を指します。
律令が基本的な制度を定めるものであるのに対し、格(きゃく)は律令の追加法令、式(しき)は律令や格の施行細則をまとめたものでした。
弘仁格式は、変化する政治状況に対応するために作られたものであり、律令制度を現実の行政に合わせて調整する役割を持っていました。
令外官は弘仁格式によって正式な官職になったのか
令外官は、基本的には弘仁格式によって新たに律令の官職として組み込まれたわけではありません。あくまで「令の外」に設置された官であり、その性質自体は維持されました。
ただし、弘仁格式などの格式によって、令外官の存在や運用が整理され、朝廷の制度の中で一定の位置づけを得ていったことは事実です。
例えば蔵人所の場合、設置当初は天皇直属の実務機関という性格が強いものでしたが、次第に朝廷政治に欠かせない重要な機関として定着していきました。
令外官と律令制の関係
令外官の存在は、律令制度が完全に固定された仕組みではなく、時代の変化に合わせて柔軟に変化していたことを示しています。
律令だけを見ると、すべての官職が最初から決められていたように見えます。しかし実際の政治では、新しい課題や権力構造の変化に対応するため、制度外の仕組みが必要になることがありました。
そのため令外官は、律令制度の例外ではあるものの、平安時代の政治を理解する上で重要な存在となっています。
まとめ
嵯峨天皇時代に設置された令外官は、律令に定められていない新しい官職として成立しました。代表例である蔵人所は、天皇直属の機関として大きな役割を果たしました。
これらの令外官が弘仁格式によって律令上の正式な官職になったわけではありません。しかし、格式によって制度上の整理や運用の安定化が進み、朝廷の政治機構の中で重要な位置を占めるようになりました。
つまり、令外官は「弘仁格式で正式登録された官」ではなく、「格式によって認められ、実際の政治制度として定着していった存在」と理解すると分かりやすいでしょう。


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