則天武后の死後は誰が皇帝になったのか?武周の終焉と唐王朝復活の理由を解説

中国史

則天武后(武則天)は、中国史上唯一の女性皇帝として知られています。彼女は自分の息子である李旦(後の睿宗)や李顕(後の中宗)を退位させ、自ら皇帝となって武周という新しい王朝を築きました。しかし、則天武后の死後に誰を皇帝にするつもりだったのか、また最終的に誰が帝位を継いだのかについては、中国史の大きな転換点となる重要な出来事があります。本記事では、則天武后の後継者問題と唐王朝復活までの流れを詳しく解説します。

則天武后はなぜ自分の息子を退位させて皇帝になったのか

則天武后は唐の第3代皇帝・高宗の皇后でした。高宗の死後、彼女は政治の実権を握り、息子である中宗(李顕)を皇帝に即位させました。

しかし中宗は政治的に母親の影響を強く受けており、皇后の韋氏を重用しようとしたことなどを問題視され、即位からわずか約1か月で退位させられました。その後、もう一人の息子である睿宗(李旦)が皇帝となりましたが、実権は完全に則天武后が握っていました。

690年、則天武后は唐の国号を廃止し、自ら皇帝として即位して武周を建国しました。これは中国史上初めて女性が皇帝の座についた出来事でした。

則天武后は死後に武周を誰へ継がせようとしていたのか

則天武后が最初に考えていた後継者候補は、自分の一族である武氏の人間でした。

則天武后は自分の姓である武氏の一族を重用し、甥の武三思や武承嗣などを皇位継承候補として考えた時期がありました。もし武氏の人物が皇帝になれば、武周という新しい王朝を維持できる可能性があったからです。

しかし、唐王朝の皇帝の血統は李氏であり、多くの臣下や皇族は「唐の皇統を武氏に渡すこと」に強く反発しました。そのため、武氏による王朝継続は次第に現実的ではなくなっていきました。

最終的に則天武后が選んだ後継者は息子の李顕だった

晩年の則天武后は、最終的に自分の息子である李顕(中宗)を後継者として認める方向へ変化しました。

この決断には、宰相の狄仁傑(てきじんけつ)などの進言が大きく影響したとされています。狄仁傑は「天下は李氏の天下であり、武氏に渡せば国が乱れる」という趣旨の意見を述べ、唐王朝の血統を守ることを勧めました。

また、武氏一族よりも自分の実の息子を後継者にする方が、国内の混乱を抑えられるという現実的な判断もあったと考えられています。

則天武后の死後、唐王朝はどのように復活したのか

705年、則天武后は病により政治の第一線から退き、同年に亡くなりました。その直前、宰相の張柬之らによる政変が起こり、中宗(李顕)が再び皇帝に即位しました。

これにより武周はわずか約15年で終わり、国号は再び唐へ戻りました。歴史上では、この出来事を「神龍革命」と呼びます。

つまり、則天武后は一時的に唐を廃して武周を建国しましたが、最終的には自分の息子へ帝位を戻す形となり、唐王朝の皇統が復活することになりました。

もし武氏の人物が皇帝になっていたらどうなっていたのか

歴史上では、武則天が武氏の後継者を選んでいれば、中国の王朝の流れは大きく変わっていた可能性があります。

武三思や武承嗣が皇帝になれば、武周は継続したかもしれません。しかし、唐王朝を支持する勢力や李氏の皇族から強い反発が起こり、内乱につながる可能性もありました。

実際には、則天武后の死後に唐が復活したことで、後世の歴史では武周は唐王朝の途中に存在した短期間の王朝として扱われています。

まとめ:則天武后は最終的に元の息子を後継者に選んだ

則天武后は当初、自分の一族である武氏へ帝位を継承させることも考えていました。しかし、政治的な反発や国家の安定を考え、最終的には実の息子である李顕(中宗)を後継者としました。

その結果、則天武后の死後には武周が終わり、唐王朝が復活することになります。中国史上唯一の女性皇帝だった則天武后の最大の功績と苦悩は、自分が築いた新王朝を維持するか、伝統的な李氏の皇統へ戻すかという難しい後継者問題にあったと言えるでしょう。

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