隋と唐は中国歴史において非常に重要な王朝ですが、その民族構成や建国の経緯についてはよく議論されています。特に「征服王朝」として理解されることもあり、実際にどのような民族がその王朝を支配していたのか、また他の征服王朝との違いについて詳しく見ていきましょう。
隋王朝と唐王朝の民族構成
隋王朝(581年~618年)は、中国の歴史における短命ながらも重要な王朝で、煬帝(ようてい)によって設立されました。隋王朝の創始者である煬帝の家系は、漢民族(中国本土の主要民族)に属していました。そのため、隋王朝は漢民族による王朝とされています。
同様に、唐王朝(618年~907年)の創始者である李世民(りせいみん)も漢民族の出身です。唐王朝は隋王朝の滅亡後、即座に中国を支配しました。唐王朝もまた、漢民族によって支配されていたため、隋や唐を「漢民族の王朝」として理解することが一般的です。
征服王朝とは何か?
「征服王朝」とは、通常、非漢民族が中国を征服して建国した王朝を指します。例えば、元(1271年~1368年)や清(1644年~1912年)などが代表的な征服王朝です。元王朝はモンゴル人、清王朝は満洲(満洲族)によって支配されていました。これらの王朝は、中国の伝統的な支配者である漢民族とは異なる民族が創設したものです。
隋や唐は、漢民族自身によって創設されたため、征服王朝には該当しません。従って、隋や唐は「征服王朝」とは呼ばれませんが、その後の元や清のように、外部からの支配を受けた王朝とは異なり、漢民族が国家を再興したという意味では、歴史的に重要な意味を持ちます。
隋王朝と唐王朝の征服王朝とされる理由
隋や唐を征服王朝として捉える見方は、これらの王朝が他の民族を支配したという点から出てきたものです。特に隋王朝の建国においては、鮮卑族を中心とする北方民族の影響を受けていたため、「征服王朝」として理解されることもあります。また、唐王朝においても、王朝成立における関与があった鮮卑族や契丹族など、少数民族との関係が強かったため、外部民族の影響を受けたことが「征服王朝」の要素とされることもあります。
元・遼・金・後金・清王朝と征服王朝の違い
元(1271年~1368年)や清(1644年~1912年)などの王朝は、明確に異なる民族集団による支配を行った「征服王朝」として広く認識されています。元王朝はモンゴル民族によって、清王朝は満洲族によって支配されていました。これらの王朝は、漢民族とは異なる民族集団によって創設され、中国の伝統的な支配者である漢民族を征服したという意味で、典型的な征服王朝とされています。
遼(907年~1125年)や金(1115年~1234年)もまた、漢民族ではなく、契丹族や女真族(満洲の先祖)などによって支配されていたため、征服王朝の一種と考えられます。後金(1616年~1644年)は、後の清王朝の前身であり、満洲族が再度中国を支配することとなりました。
まとめ
隋王朝と唐王朝は漢民族によって建国された王朝であり、従って「征服王朝」とは呼ばれません。これに対して、元、遼、金、後金、清といった王朝は、異なる民族集団が中国を征服して建国した王朝として知られています。それぞれの王朝の成り立ちには、民族的な背景や歴史的な経緯が深く関わっており、その理解を深めることが中国歴史の理解において重要なポイントとなります。


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