古代から現代まで――の葬送儀礼における「/」の継承と変遷

日本史

日本の皇室における葬送儀礼には、古代から続く習俗と近代以降に整備された神道的儀式が複雑に絡み合っています。その中でも「殯(もがり)の儀」と「殯宮(もがりのみや/ひんきゅう)」は古代の伝統と、近代以降の皇室儀礼の橋渡しとして興味深い例です。本記事では、この儀礼が古代からどのように受け継がれ、現代に至るまでどのように変化してきたのかを整理します。

そもそも「殯の儀」とは何か

「殯」は、古代日本において遺体をすぐに埋葬せず、棺に納め仮安置しておく期間の葬送儀礼を指します。遺体を安置した建物は「殯宮」と呼ばれました。([参照])

この期間、近親者や氏族、あるいは国家的儀礼として、故人の霊魂を慰め鎮めるための歌舞・誄(しのびごと)・弔いなどが行われていたと伝えられています。([参照])

古代における皇室の殯の実例とその意味

たとえば、『』など古代史料には、天皇・皇族が崩御した際に殯宮を造営し、殯の儀が行われた記録があります。([参照])

このような長期間にわたる殯の儀は、故人の魂があの世へ安らかに旅立つのを待ち、同時に棺と遺体の変化(腐敗や白骨化)を確認することで「最終的な死」を確定させる目的もあったと考えられています。([参照])

なぜ殯は衰退したのか ― 火葬・仏教の導入と薄葬化

古代の殯儀礼は律令制下で制度化されましたが、やがて仏教の伝来とともに火葬が広まり、棺を長期間そのまま置いておく殯の文化は次第に衰えていきました。([参照])

加えて、646年のなどの政策もあり、庶民の厚葬・長期の殯は制限されるようになりました。こうした流れの中で、殯の儀は一般社会から姿を消していきます。([参照])

明治以降と皇室 ― 殯宮の復活と神道系葬礼の導入

しかし、近代に入って皇室葬礼が再び制度として整えられる中で、殯の概念は「殯宮」という形で復活しました。皇族の崩御時には、遺体を棺に納めた上で仮安置し、一定期間を経て本葬(斂葬・大喪の礼など)が執り行われるようになったのです。([参照])

この近代の皇室儀礼では、仏教儀礼ではなく、主に神道的な形式が採られ、国家儀礼としての色彩が強まりました。それでも、「死者をすぐに火葬・土葬せず、仮安置して一定期間をおく」という“殯の精神”は、現代の葬儀においてある程度継承されているとみられます。([参照])

現代の殯宮 ― 例:・の葬儀

実際、昭和天皇崩御(1989年)や香淳皇后崩御(2000年)の際には、「殯宮」が設けられ、棺が安置されました。そしてその後、約40〜50日後に国家としての大喪の礼が執り行われました。([参照])

これにより、古代の殯から続く「仮安置期間→本葬」という流れが、現代の皇室葬儀でも形式を変えながら受け継がれていることがわかります。([参照])

古代との違い ― 簡略化・形式化された現代の殯

ただし、古代のように数か月〜数年にわたって遺体を安置し、歌舞や誄を行うような大規模な殯儀礼は、現代には行われていません。

現代の殯宮での仮安置期間は短く、また儀式も形式化・簡略化されています。その意味では、「古代の殯儀礼の精神性」は残るものの、「かつてのようなリアルな鎮魂・歌舞・復活願望」は、事実上ほとんど消えていると考えられます。([参照])

なぜ古代の儀礼と近代以降の葬礼が混在するのか ― 歴史と合理性のバランス

このように皇室の葬送儀礼が変遷を経てきた背景には、宗教(仏教/神道)の受容、衛生観念の変化、そして政治的・国家的な事情があります。

古代のような長期の殯を続けることは、現代社会の衛生観念や国民感情と相いれない面がありました。一方で、伝統と格式を重んじる皇室としては、「完全な廃止」ではなく「簡略化・形式化」で伝統を継承する道を選んだのです。

まとめ

「殯の儀/殯宮」は、古代における日本の貴族や皇室の葬送儀礼として始まり、長い間廃れた時期を経て、近代以降に皇室葬礼の一部として復活しました。

ただし、古代に見られたような長期間の棺の仮安置、歌舞・誄といった儀式、霊魂への祈りや鎮魂という宗教的・精神的な厚みは、現代では形式化および簡略化されています。それでも、古代から続く「死者を敬い、慎みと祈りをもって送る」という精神性は、皇室の葬送儀礼の中にうっすらと受け継がれていると言えるでしょう。

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