第二次世界大戦終結後、〈抵抗運動=パルティザン〉として活躍した人々が、どのようにして新生の〈イタリア王国〉から〈イタリア共和国〉(1946年)へと移行する政治体制に関与していったのか。今回は、彼らが政府高官に就任した実例とその意味を整理します。
「パルティザン」とは何か?
イタリアにおける「パルティザン(partigiani)」は、1943年以降、ドイツ占領・ファシスト政権残存勢力と戦った非正規抵抗組織の構成員を指します。([参照]({“url”:”https://www.britannica.com/place/Italy/The-partisans-and-the-Resistance”}))
この運動は戦後の体制変革に重要な役割を果たし、政治的にもその経験を背景に持つ人々が活動の舞台に出てきました。
1946年の共和国成立と政治の変化
1946年6月2日、国民投票によりイタリア王制は廃止され、新たにイタリア共和国が成立しました。([参照]({“url”:”https://en.wikipedia.org/wiki/1946_Italian_institutional_referendum”}))
その直後、同日〜翌日にかけて憲法制定議会選挙も実施され、戦後の新体制づくりが始まりました。([参照]({“url”:”https://en.wikipedia.org/wiki/1946_Italian_general_election”}))
パルティザン出身者が政府高官になった実例
例えば、フェルルッチョ・パッリ(Ferruccio Parri)は、戦時中にパルティザン指導者として活動し、1945年6月から12月まで首相(臨時政権)を務めました。([参照]({“url”:”https://en.wikipedia.org/wiki/Ferruccio_Parri”}))
また、ピエトロ・ネンニ(Pietro Nenni)はパルティザン運動に関係した社会主義者で、戦後には政府の閣僚(憲法担当、外務大臣等)にも就いています。([参照]({“url”:”https://en.wikipedia.org/wiki/Pietro_Nenni”}))
「何人か」がどれくらい?数としての難しさ
「パルティザン出身者が“何人か”政府の高官になったか」という問いに対して、正確な人数を挙げることは困難です。なぜなら「パルティザン経験」の定義が政治経歴・軍歴・抵抗運動参加者としての証明など多岐にわたるためです。
ただし、上記のような実例が複数存在し、戦後の連立政権/憲法制定議会において“抵抗経験者”が重要ポジションを占めたことは確実です。このため「数人」レベルではなく、〈少数ながら影響力あるポジション〉に就いたというのが実態と言えるでしょう。
なぜパルティザン出身者が政治に登場したのか?背景要因
第一に、戦後体制構築期において、抵抗運動を行った経験が〈新しい民主主義体制への貢献〉として評価されたからです。([参照]({“url”:”https://qdr.syr.edu/atipaper/political-legacies-of-wartime-resistance”}))
第二に、旧体制(王制・ファシズム)への反発が強く、抵抗運動出身者が信頼性(反ファシスト・反占領)を持っていたという事情があります。
まとめ
要点を整理すると:戦時中のイタリア抵抗運動(パルティザン)出身者が、1946年の共和国成立期およびその後の政府において「政府高官」に就任した実例は存在します。しかし、人数を特定する公式な統計は乏しく、「1 人2 人」ではなく「数人〜十数人規模」で影響力を持ったというのがより現実的な見方です。
もしさらに詳しく「〇〇閣僚でパルティザン出身者は何人か」というデータを探すなら、憲法制定議会メンバーリスト・連立政権の閣僚リストを戦後パルティザン名簿と照合する方法が有効です。


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