中国・新末〜後漢初期に起きた反乱のひとつ、〈赤眉の乱〉(18年〜27年)の名称には、「赤い眉」という視覚的な特徴が刻まれています。なぜ反乱軍が眉を赤く染めたのか、その背景・象徴性・実際の意味を整理してみましょう。
赤眉の乱とはどのような反乱だったか
この反乱は、王莽が建てた新(「新朝」)政権末期に発生した大規模な農民・流民の蜂起です。反乱軍は山東省から勢力を拡大し、一時は長安を占領するまで至りました。([参照]({“url”:”https://www.y-history.net/appendix/wh0203-109.html”}))
複数の蜂起が合流したこの反乱は、飢饉・重税・治安悪化といった新朝体制の弱体化を背景としていました。([参照]({“url”:”https://manapedia.jp/text/7368″}))
「赤眉」の名称の由来:なぜ眉を赤く染めたのか
「赤眉」という名称の最大の特徴は、反乱軍が自軍を識別するために眉(まゆ)を朱(赤)で染めた点にあります。([参照]({“url”:”https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E7%9C%89%E3%81%AE%E4%B9%9C%E3%81%86%E3%81%AE%E4%B9%B1-86922″}))
この行為は、敵である公的軍隊や他部隊と区別をつけるための「視覚的マーク」であり、同時に集団内部の連帯感や象徴性を高める役割も担っていました。([参照]({“url”:”https://chinese-history-dokuzisyukan.com/sekibinoran-nazeaka/”}))
具体的な実例:眉を赤く染めた場面
山東・琅邪(現在の日照市)での蜂起開始期、反乱軍の指導者・樊崇らは「朱其眉以相識別」と記録されており、兵士たちに眉を赤く染めさせたことで“赤眉軍”と呼ばれるようになったとされています。([参照]({“url”:”https://en.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%9C%89%E8%BB%8D”}))
この染眉という手段は、軍旗や色別の衣服が整備されていない農民軍ならではの“即席の識別装置”として機能しました。
「赤い眉」が持つ象徴的な意味とは?
この「赤眉」には、次のような象徴性が考えられます。
- 団結の印:同じ染眉を施すことで“我々は一体だ”という意識が強まった。
- 威圧・識別の手段:敵・政府軍から見て「赤眉という印を持つ集団」であると認識させることで威嚇・識別効果があった。
- 象徴的な響き:漢王朝復興を目指す反乱軍として、〈火=赤〉のイメージや古典的な色彩象徴を活用した可能性も指摘されています。([参照]({“url”:”https://www.y-history.net/appendix/wh0203-109.html”}))
つまり、眉を赤く染めるという一見“奇抜”な行為も、当時の軍事・政治環境の中では戦略的・象徴的な意味を併せ持っていたと考えられます。
反乱名称の定着と「乱」への展開
眉を赤く染めた集団が「赤眉軍」と呼ばれ、その集団を中心に展開された戦闘・蜂起の連続が、後世「赤眉の乱」という総称で語られるようになりました。([参照]({“url”:”https://www.y-history.net/appendix/wh0203-109.html”}))
名称には、単に“眉を赤くした”という事実以上に、「農民・流民の急増」「地方豪族との連合」「王莽体制の崩壊」という大きな歴史的潮流が映し出されています。
まとめ
「赤眉の乱」という名称は、農民反乱軍が眉を赤く染めていたという具体的な視覚情報に由来しています。それは識別・連帯・象徴の三重の意味を持ち、農民軍が“ただの暴徒”ではなく、一定の組織性・戦略性をもっていたことの証とも言えます。
歴史名である「赤眉の乱」を理解するには、この染眉という“色の行為”がなぜ行われ、どのように機能したのかを捉えることが重要です。農民反乱という現象を、単なる経済的・社会的な反発としてだけではなく、色彩・象徴・戦略という視点からも見てみると、新たな理解が得られるでしょう。


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