大日本帝國憲法における「行政」の所在――立法・司法との関係と天皇統治の構造

日本史

明治22年制定の大日本帝國憲法は、立法(帝国議会)・司法(裁判所)を明記しながら、「行政」という言葉が明確に三権の一角として独立して登場しない点が議論の対象となります。この記事では、行政が憲法上どこに位置づけられていたかを、天皇統治論・内閣・枢密院の役割などを通じて解説します。

憲法上「三権分立」の仕組みの欠如

憲法第3条に「天皇ハ國體ノ象徴ニシテ統治権ヲ総覧ス」と定められ、天皇が統治権を総覧する主体とされました。([参照]({“url”:”https://www.ndl.go.jp/constitution/e/etc/c02.html”}))

つまり、立法・司法・行政という三権を明確に分離するという発想は、憲法上は採用されず、むしろ天皇を起点とする統治構造が優先されています。

立法・司法との関係と「行政」の取扱い

たとえば憲法第5条・6条では、天皇が「立法権」を行使し、「法律ノ執行ヲ命シ之ヲ施行ス」という条文があり、行政機関の具体的な位置づけはあいまいです。([参照]({“url”:”https://www.crjapan.org/constitution-empire-japan-meiji-constitution”}))

また、裁判所の設置は第57条以下に規定されており、司法機関としての独立性の枠組みが比較的明確ですが、“行政”を独立させる制度的枠組みは定義されていません。

国務大臣・枢密院の位置づけと行政機能

憲法第55条では天皇の命令(勅令・布告等)は「国務大臣ノ輔弼ヲ以テ之を行フ」と定められています。ここで国務大臣が天皇を補佐して行政的な命令を発する役割を担ったことが読み取れます。([参照]({“url”:”https://www.ndl.go.jp/constitution/e/etc/c02.html”}))

さらに、枢密院は憲法第56条以下で天皇に対して助言・参与する機関と位置づけられており、行政構造の「企画・助言」的な機能を担っていました。

なぜ行政を三権のひとつとして明記しなかったのか?

背景には、ドイツ・プロイセン流の統治モデルを参照しつつも、「皇統(皇室)の権威=国家統治の根源」という日本独自の国体観(〈国体論〉)が強く反映されていたという指摘があります。([参照]({“url”:”https://www.jiia-jic.jp/en/japanreview/pdf/JapanReview_Vol2_No2_02_Hatano.pdf”}))

そのため、「行政を議会から独立して明文化する」よりも、「天皇を統治の総覧者とし、国務大臣や枢密院が補佐・執行する」という構造が選ばれたと考えられます。

具体的な運用と行政機関の形成

例えば、明治期においては内閣制度設置(1885年)や府県制・郡制など行政機構の整備が進みましたが、それらは憲法上の「行政」条項ではなく、法令・勅令・官制改正によって形成されたものでした。

裁判所・帝国議会と比較すると、行政機構は憲法よりも実務的・制度的側面で整備されたと言え、「憲法上の行政機関」というより「天皇の統治下にある執行機構」という位置づけが実態的でした。

まとめ

大日本帝國憲法では、立法・司法という機関が明記される一方で、「行政」が三権のひとつとして明示されているわけではありません。これは、天皇が統治権を総覧する存在として位置づけられた国体観に根ざしており、国務大臣・枢密院がそれを補佐・執行する構造が採用された結果です。

結果として、現代的な意味での「三権分立」が憲法上実現していたわけではなく、むしろ天皇を頂点とする統治機構の中で行政・立法・司法の機能が配分されていたと理解できます。

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