1572年、武田信玄が西上した背景には、足利義昭からの要請があったとされています。この時期、戦国時代の日本では、中央の権力が弱体化し、各地の大名が独自の勢力を拡大していました。信玄の西上がどのような理由で行われたのか、またその目的について詳しく探っていきます。
武田信玄の西上の背景
武田信玄が1572年に西上した理由には、複数の要因が絡んでいます。まず一つ目は、足利義昭からの要請です。義昭は、織田信長と対立しており、信長の勢力拡大に対抗するために信玄の支援を求めました。この時期、信長は京都を支配し、実質的な権力を握っていましたが、義昭はその支配に反発しており、信玄に協力を求めることとなったのです。
さらに、信玄自身の目的もありました。信玄は、自らの勢力拡大を狙っており、甲信地方の支配だけでなく、他の地域への進出を考えていた可能性があります。信玄の西上は、義昭の支援を行いつつ、自らの勢力を強化し、織田信長の勢力に対抗しようとする一環だったとも考えられます。
足利義昭の要請とその政治的背景
足利義昭は、織田信長の急激な台頭に危機感を抱き、信玄に支援を求めました。義昭は、朝廷から任命された将軍でありながら、実際には信長の力に圧迫されており、自らの権力を維持するために外部の援助を必要としていました。信玄はその要請に応じ、信長に対抗するために西上を決意したのです。
また、この時期の日本では、信長と並ぶ強大な勢力を持つ大名が少なかったため、信玄の力が重要な意味を持ちました。信玄の軍事力を借りることで、義昭は自らの政治的立場を強化しようとしたのです。
信玄の西上と「天下獲り」
信玄が西上した背景には、足利義昭の要請だけでなく、信玄自身の「天下獲り」の意識も影響していたと考えられます。信玄は、自らの領土を広げることに熱心で、特に信長との戦いにおいては、中央政権を制圧し、自らが天下を取るという野心を持っていたと言われています。西上の途中で起きた長篠の戦い(1575年)では、信玄は信長の軍に対抗するための戦略を立てることを目指していました。
まとめ
1572年の武田信玄の西上は、足利義昭からの要請に応じたものであり、同時に信玄自身の政治的・軍事的な意図があったことがわかります。信玄は、義昭を支援しつつ、自らの勢力を拡大し、織田信長に対抗するために西上を決意しました。この一連の動きは、戦国時代における大名同士の複雑な力関係と、彼らの野心が絡み合っていたことを示しています。
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