三國志巻27「王昶傳」の書き下し文について、この記事ではその内容を詳しく解説します。王昶の政治手腕や軍事戦略を理解するために、特に青龍四年や後の政歴における重要な記述に焦点を当て、背景や意図を掘り下げていきます。
青龍四年の詔
「欲得有才、智文章、謀慮淵深、料遠若近、視昧而察、籌不虛運、策弗徒發、端一小心、清脩密靜、乾乾不解、志尚在公者。無限年齒、勿拘貴賤。卿校已上、各舉一人」
青龍四年、詔により王昶は選ばれ、太尉司馬宣王に仕官します。この詔は、政治や軍事の要職を任せるために、一定の優れた資質を持つ人物を求めており、特にその人物に対しては公正さや慎重さ、冷静な判断力を求める内容が含まれています。王昶がその条件に合致していたことは、その後の昶の昇進に繋がる要因となりました。
昶の転任と武観亭侯への封印
「正始中、轉在徐州、封武觀亭侯、遷征南將軍、假節都督荊豫諸軍事。」
王昶は後に徐州に転任し、武観亭侯として封じられます。さらに、征南将軍としての任命を受け、荊豫諸軍事の都督としての任務も与えられました。この転任と昶の軍事的任命は、彼の能力と信任を示すものであり、彼の政治的・軍事的な評価が高かったことが伺えます。
新野の移転と水軍の育成
「昶以為「國有常衆、戰無常勝。地有常險、守無常勢。今屯宛、去襄陽三百餘里、諸軍散屯、船在宣池。有急不足相赴」乃表、徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖。」
王昶は「戦争には常勝はなく、守るべき地形や戦略も一定ではない」と考え、宛に駐屯していたが、地理的な不安定さを理由に新野に移転することを決定します。この移転は、戦略的に重要な意味を持ち、軍事的な備えを強化するために新野で水軍を養成し、農業を発展させることで自軍の資源確保を目指しました。
荊州刺史としての任命と新たな戦局
「其年為尚書、出為荊州刺史、加揚烈將軍。」
王昶は尚書としての職を得た後、荊州刺史に任命され、さらに揚烈将軍としての位も与えられました。彼は荊州を中心とした地域の治安維持や軍事的強化に注力し、また、戦場においても成功を収めることとなります。特にその年、彼は荊州での戦力を強化し、今後の戦局において重要な位置を占めることになります。
戦略家としての評価と改革
「時朝廷議欲伐吳、詔基量進趣之宜。基對曰「夫兵動而無功、則威名折於外、財用窮於內。」
王昶は戦略家としても高く評価され、特に「兵を動かして無益であれば、財政が困窮し、外的威信も損なわれる」という洞察は、戦局に対する冷静な判断を示しています。彼は無駄な戦争を避け、戦の準備を整えてから決定を下すべきだと考え、慎重な戦略家としての姿勢を見せました。
まとめ
三國志に登場する王昶は、政治家としても軍事指導者としても非常に優れた人物でした。青龍四年に詔を受けた王昶は、徐州の将軍として成功を収め、荊州の刺史としても領土を治めました。彼の戦略的な考え方や冷静な判断力は、その後の戦争においても多くの貴重な教訓を残しました。
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