後漢時代における涼州放棄論について、これは愚策なのか、それとも時の状況を考慮した合理的な決断だったのか?この問いに対して、3回にわたる涼州放棄提案の背景とその意図を掘り下げ、歴史的な視点からその正当性を考察します。
1. 1回目の涼州放棄(35年):距離と侵略の多さ
1回目の涼州放棄は35年、金城郡破羌県より西の放棄が提案されました。提案者は朝臣で、主な理由は「道が遠く、侵略も多いため」とされています。この時期、後漢はすでに安定していなかったため、辺境の地を保持し続けることは軍事的にも経済的にも負担が大きかったと考えられます。放棄はやむを得ない判断といえるでしょう。
涼州という地域は戦略的には重要ではあったものの、後漢政権の資源や軍事力が限られている中で、維持が難しいとされました。結果として、この放棄は当時の状況において最も合理的な選択だったと見ることもできます。
2. 2回目の涼州放棄(110年):軍資金不足
2回目の涼州放棄は110年に提案され、提案者は鄧隲でした。理由としては「軍資金が足りないため」というもので、北辺の防衛に注力すべきとの判断がなされました。この時期、後漢は内部的に困難な時期を迎えており、軍資金の不足が深刻でした。
当時、北方の匈奴やその他の民族との対立が激しく、南方の涼州を守る余裕がなくなっていたことが放棄に繋がったのでしょう。経済的な理由により、軍事的な優先順位を決めることが最も重要だったと考えられます。
3. 3回目の涼州放棄(187年):役賦不足による放棄
3回目の涼州放棄は187年、提案者は崔烈でした。放棄理由は「軍費を徴発したが、役賦がなかったため」です。この理由からも、経済的な問題が原因であることがわかります。役賦は税収として重要な役割を果たしており、それが不足していることが後漢の財政難を物語っています。
この時期、後漢は内外からの圧力を受けており、軍事的な支出に必要な資金を確保することが困難だったため、涼州を放棄することで他の地域へのリソースを集中させる決断がなされたと考えられます。
4. 財政的背景とその時代背景
涼州放棄の提案に共通しているのは、いずれも財政的な問題が原因であることです。後漢は一貫して財政難に苦しんでおり、限られた資源をどこに投資するかという判断が求められました。その中で、辺境の地域を放棄することは、効率的な資源配分として理解できます。
また、貴族や豪族が支配する政治体制の中では、軍事的な優先順位を決定することが重要であり、財政を中心に考えれば、涼州放棄は「愚策」ではなく、時期的に正当な決断だったと言えるでしょう。
5. まとめ:愚策か合理的な判断か
涼州放棄論について、最初は愚策と考えることもできますが、経済的・軍事的な背景を考慮すれば、どの提案も当時の後漢にとっては理にかなった判断だったとも言えます。特に、財政的な理由での放棄は、後漢政権が直面した現実的な課題への対応策として理解できます。
また、当時の後漢政権が直面した困難な状況を背景に、涼州放棄は単なる一時的な戦略の一部に過ぎないとも言えるため、単純に「愚策」と断じるのは早計かもしれません。
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